寶珠山 修善寺 吉祥院 御本尊『地蔵菩薩』
元宇多津町平山にあり、聖通寺の末寺であった。慶長6 年(1601年)丸亀城主生駒氏に招かれ丸亀城の東北の護りとして此地に移った。明治32年城北小学校の分校となり、満州事変・支那事変・第二次世界大戦 中、丸亀第12連隊・西部第32.38部隊の戦死者の分骨安置所となっていた。
吉祥院さんには、北平山町にあります。以前お隣の弥 勒院さん(吉祥院ご住職が兼任)に、お墓を建てに伺ったときに、吉祥院さんは、丸亀の殿様が北の護りとして建立したのではないのかと、漠然と思っていたのですが、今回ご住職にいただいたお寺の資料に『慶長6年(1601)丸亀城主生駒家に招かれ丸亀城の東北の護りとしてこの地に移った。』と書かれているのを読んで、自分の想像があながち間違ってい無かったんだと、少しにんまりしています。
そして、HPにUPする写真を撮りに伺ったとき、ご住職からご本尊の地蔵菩薩さまや平成17年(2005)に落慶された客殿のことなど詳しくご説明いただきました。また、「皆さんのために」と、ご本尊の地蔵菩薩さま・脇仏さまのお写真をUPすることを、お許しくださいました。これは、普通ならお許しいただけない大変ありがたい事なのです。ですので、ご住職のご好意を無にしないためにもPCを通してではありますが、仏様に手を合わせてください。どうか皆さん、ご協力よろしくお願いします。
また、吉祥院さんは、満州事変、支那事変、第二次世界大戦中、丸亀第12連隊、西部第32・38連隊(文献によっては 32・36連隊と記載されているが、正しくは32・38連隊)の戦死者の分骨安置所になっていたそうです。
ところで、慶長6年と言えば関が原の戦いが終 わった翌年です。400年以上の長きに渡り、地蔵菩薩さまが丸亀のお城やそこに住む人々をお護り下さっているのに、そのことを自分を含め今丸亀に住んでいる人が、何人知っているのだろうか?と考えると、仏様に、申し訳ない気がしました。ご本堂の脇にある大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)や境内にあるお百度石に中世の丸亀人の信仰心を見る気がして、現代人が、今より少し信仰心を持ったなら、世の中も人の心も良い方に変わるのではと、柄にも無く思ってしまいました。
吉祥院さんには、北平山町にあります。以前お隣の弥 勒院さん(吉祥院ご住職が兼任)に、お墓を建てに伺ったときに、吉祥院さんは、丸亀の殿様が北の護りとして建立したのではないのかと、漠然と思っていたのですが、今回ご住職にいただいたお寺の資料に『慶長6年(1601)丸亀城主生駒家に招かれ丸亀城の東北の護りとしてこの地に移った。』と書かれているのを読んで、自分の想像があながち間違ってい無かったんだと、少しにんまりしています。
そして、HPにUPする写真を撮りに伺ったとき、ご住職からご本尊の地蔵菩薩さまや平成17年(2005)に落慶された客殿のことなど詳しくご説明いただきました。また、「皆さんのために」と、ご本尊の地蔵菩薩さま・脇仏さまのお写真をUPすることを、お許しくださいました。これは、普通ならお許しいただけない大変ありがたい事なのです。ですので、ご住職のご好意を無にしないためにもPCを通してではありますが、仏様に手を合わせてください。どうか皆さん、ご協力よろしくお願いします。
また、吉祥院さんは、満州事変、支那事変、第二次世界大戦中、丸亀第12連隊、西部第32・38連隊(文献によっては 32・36連隊と記載されているが、正しくは32・38連隊)の戦死者の分骨安置所になっていたそうです。
ところで、慶長6年と言えば関が原の戦いが終 わった翌年です。400年以上の長きに渡り、地蔵菩薩さまが丸亀のお城やそこに住む人々をお護り下さっているのに、そのことを自分を含め今丸亀に住んでいる人が、何人知っているのだろうか?と考えると、仏様に、申し訳ない気がしました。ご本堂の脇にある大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)や境内にあるお百度石に中世の丸亀人の信仰心を見る気がして、現代人が、今より少し信仰心を持ったなら、世の中も人の心も良い方に変わるのではと、柄にも無く思ってしまいました。